村上龍の作品
1952年2月19日、長崎県佐世保市に生まれる。本名は村上龍之助で、これは中里介山の小説『大菩薩峠』の主人公「机龍之助」にちなんだもの。父は美術教師、母は数学教師であった。佐世保市立御船小学校、佐世保市立光海中学校を経て、1967年長崎県立佐世保北高等学校に入学。翌年、佐世保港にアメリカの原子力空母エンタープライズが入港、この際の反代々木系全学連の入港阻止運動に感動する。
高校在学中はロックバンドを結成しドラムを担当、その後解散し、ラグビー部の過酷な練習のためから退部をして新聞部へ移る。3年生の夏、高校の屋上を仲間とともにバリケード封鎖し無期謹慎処分となる。3ヶ月に及ぶ謹慎期間中、ヒッピー文化に出会い大きな影響を受けた。1970年佐世保北高校を卒業、それに前後して再びロックバンドを結成し、文化会館を借りてロック・フェスティバルを行なった他、8ミリ映画の制作や劇団を作って活動するなどした。この年の春に上京し、現代思潮社の主宰する美学校のシルクスクリーン科に入学するも、半年で退学、同年10月から1972年2月まで、米軍横田基地に近い福生市に住んだ。1972年、武蔵野美術大学造形学部基礎デザイン科入学。このころより福生での体験をもとに小説を書き始める。
1976年、基地の町で麻薬と乱交に明け暮れる若者の姿を描いた『限りなく透明に近いブルー』で第19回群像新人文学賞を受賞、同年第75回芥川龍之介賞を受賞し衝撃的なデビューを飾る。芥川賞選考会では評価が真っ二つに分かれ、文壇でも奥野健男が評価する一方江藤淳が批判するなど議論を呼んだ。同年、エレクトーン奏者の女性と結婚。それより数年後、男児をもうける。大学を中退したのち、本格的な作家活動に入る。
1980年、コインロッカーに遺棄された孤児の破壊衝動を描いた『コインロッカー・ベイビーズ』で第3回野間文芸新人賞受賞。以降、自伝的作品である『69 sixty nine』、日本を弱肉強食型の社会に変革しようともくろむ秘密結社「狩猟社」の闘いを描いた『愛と幻想のファシズム』(ともに1987年)、SM嬢を過激な性表現で描いた連作『トパーズ』(1988年)などを発表、小説執筆の傍ら自作の映画化に取り組むなどの活動を行なう。
パラレル・ワールドの日本を描いた『五分後の世界』(1994年、第30回谷崎潤一郎賞候補)などを経て、1996年、『69』の続編である『村上龍映画小説集』で平林たい子文学賞受賞。同年、女子高生の援助交際を描いた『ラブ&ポップ』を発表、アニメーション監督の庵野秀明が実写映画化した。1998年、サイコホラー風の作品『イン ザ・ミソスープ』で読売文学賞受賞。1999年より、金融・経済を中心に論議する場としてメールマガジン『JMM』を主宰し編集長を務める。同年、バブル景気の対応を批判した絵本『あの金で何が買えたか』を発表。以降、経済、社会問題に対する議論に積極的に関わるようになる。
2000年、引きこもりの青年が戦争に魅了されていく様を描いた『共生虫』を発表、第36回谷崎潤一郎賞受賞。同年発表した『希望の国のエクソダス』では、日本社会に希望を失った中学生たちがインターネットを通じて新たな社会システムを作り挙げていく様を描き、大きな話題となった。
2001年、未だ世界各地に埋没する地雷の除去費用寄付の為にと友人でもある坂本龍一の呼びかけで結成されたチャリティーグループN.M.L.(NO MORE LANDMINE)の楽曲「ZERO LANDMINE」の歌詞の日本語訳を担当する。
2004年、中学生へ向けて働くことへの興味を促す目的で『13歳のハローワーク』を発表。2005年には綿密な取材を元に日本と朝鮮との関係を描いた『半島を出よ』を発表、第58回野間文芸賞、第59回毎日出版文化賞を受賞した。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
コインロッカー・ベイビーズが一番好きです。
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